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Tourist Information
(Main Station)
Willy-Brandt-Platz 1
69115 Heidelberg
Germany
Phone: +49-(0)6221-1 94 33
Fax: +49-(0)6221-13 88 111
info[at]cvb-heidelberg.de
www.cvb-heidelberg.de
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旧市街
ハイデルベルクは大学町らしく、落ちついていて気品がある。旧市街には石畳の小路が入りくんで走り、お洒落なスーベニアショップ(有名なシュタイフのテディベアもある)や、赤牛亭(ツム・ローテン・オクセン)のようにロマンティックな物語の舞台となったレストラン、歴史を秘めた建物などをおとずれるさまざまな散策ルートがある。なかでも大学(1711年建造)がある大学広場から始まるルートは魅力的で、獅子の噴水があり、近くには学生牢もある。ほど遠くない場所に、現在はホテルになっている「騎士の館(ツム・リッター)」とよばれるルネサンス様式の建物がある。この建物はハイデルベルクを焦土と化した17世紀末のプファルツ継承戦争を生きのびた、ただ1つの建物であり、「かつてこの町がどのような姿であったか」を想像させる貴重な歴史の証人でもある。
プファルツは、ライン川西岸一帯の地域をさす。17世紀にはハイデルベルクの領主プファルツ選帝侯の領地だった。フランス王ルイ14世は、相続のもつれに乗じて相続権を主張。反対するハイデルベルクに、全市焼き討ちをかけた。このときのフランス軍の破壊と略奪は凄まじく、2度の焼き討ちで「ネッカー渓谷には、鳥の影さえ見えぬ」というほどの被害をこうむった。城も廃墟になるまで破壊された。「ルイ14世はフランスでは太陽王。しかしドイツにとっては暗黒の王」という言葉がのこされている。
そのころのドイツは、神聖ローマ帝国(コラム参照)といった。しかし帝国とは名ばかりで、中身は諸侯や司教たちの寄せ集めのモザイクのような国家にすぎず、はやくから統一が進んで、王が絶対的な権力をにぎっていた中央集権国家のフランスの力には、あらがいようがなかった。城が破壊をうける前の姿は、プファルツ選帝侯国博物館に展示されている絵で見ることができる。フランス式庭園をもった、みごとな城が描かれている。ルイ14世が破壊を記念してつくらせたメダルも展示されている。表にルイ14世の横顔、裏に荒廃したハイデルベルクの風景と悲嘆にくれる川の女神ネッカーが浮彫られている。
ハイデルベルク城
古城はハイデルベルクの顔といっていい。この城がなければ、ハイデルベルクの印象も、ずっとちがったものになっただろう。カール広場から見あげると、城は頭上にのしかかるようにせまって圧倒的な迫力がある。
プファルツ伯がハイデルベルクに城をかまえたのが12世紀末。14世紀末には大学がひらかれた(開設者、プファルツ侯ループレヒト1世)。城の建造も、この時代から始まった。城館はもっぱらドイツの初期ルネッサンス様式で建てられたが、プファルツ継承戦争で2度の破壊をうけ、その後火薬庫としてつかわれていたとき、落雷で大爆発をおこして廃墟となった。しかし城跡を歩くと、歴史と数百年の時の流れを濃密に感じさせられ、思わず知らず重厚な空気につつみこまれてしまう。城内には石橋をわたり、城門をくぐって入る。中庭を四方から翼棟が囲んでいる。城内には世界最大のワインの大樽がある。容積は22万リットル。薬事博物館もあって見学できる。正面のフリードリッヒの館のテラスからは、旧市街が見わたせる。館の前の石段を下りていくと城外に出て、町と城をむすぶ坂道にでる.
学問の府
ハイデルベルクで忘れてならないのは、その知的財産の豊かさだろう。ノーベル賞の受賞者だけでも7人。「天は自ら助ける者を助ける」という言葉で知られる名著「プロテスタンティズムと資本主義の精神」をあらわした社会経済学者のマックス・ウエーバーは、大学でながく教鞭をとった。哲学者リッケルトは、明治の日本からやってきた日本人留学生を指導した。大正時代には吉野作造(東大教授)やマーク・トゥエイン(アメリカ人作家)も、ここで講義を聴いた。ゲーテは8回にわたってこの町をおとずれ、詩人ブレンターノやヘルダーリンは誇らしげに町を讚(たた)えて詩に歌いあげた。ドイツ哲学の頂点にたつヘーゲル、ナチスの時代にも自説を曲げなかったヤスパース。楽聖シューマンは多感な学生時代を過ごし、同じくブラームスもネッカー川の畔でよく休暇をすごした。この大学町には、いまでも知性がかもしだす上質な「志しの継承」がただよっている。ネッカーの川辺にたたずむとき、夜半石畳の小路をひとり歩くとき、訪れる者だれしもがそのかぐわしい香りを感じることだろう。
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