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  コラム

選帝侯

 ドイツの王を選ぶ権利をもった3名の大司教と4名の諸侯のこと。ドイツの王は事実上神聖ローマ帝国の皇帝でもあったから、皇帝を選ぶ選挙権をもった7名は選帝侯(選挙侯、選定侯と書かれることもある)と呼ばれた。1356年に皇帝カール四世が「金印勅書(黄金文書)」と呼ばれる文書に「選帝侯はマインツ、トリア、ケルンの3名の大司教、プファルツ伯(宮中伯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4名の諸侯」と明記し、これによって選挙権をもつ聖職諸侯と世俗諸侯とが確定した。

 選挙で皇帝や王を決めるのはドイツの特徴で、金印勅書はそれを条文化したものである。なお勅書に金印という頭文字がついているのは、カール四世が黄金の印章を押したことによる。17世紀になると、さらにバイエルン大公とハノーバー大公が選帝侯となり、その数は9名となった。選帝侯の一人ブランデンブルク辺境伯はプロイセン王国をつくり、1701年からはプロイセン国王の称号を「辺境伯」と合わせてつかうようになった。さらに1803年には4名の諸侯(ザルツブルク、バーデン、ヴュルテンベルク、ヘッセン・カッセル)が選帝侯に加わる。プファルツ伯は1777年に廃位にされているので、これで選帝侯は12名となり、この形式で1806年の神聖ローマ帝国消滅まで続いた。

 

 

金印勅書

 31条からなっていて、神聖ローマ帝国の皇帝をえらぶ選挙のルールを定めている。同時に、ドイツ諸侯の会議である帝国議会のシステムも定めている。

 

 

宮中伯

 自分の領土内であれば、王権と同じ権利を行使できる伯爵位。

 

 

辺境伯

 神聖ローマ帝国の国境を守る軍司令官の伯爵位。

 

 

マインツの文書闘争

 ドイツ語で、文書闘争はシュティフト・フェーデという。フェーデという言葉は日本語では「私闘」と訳される。しかしながら、フェーデという言葉の真の意味を理解してもらうには、まず中世ドイツのシステムを説明しなければならない。

 中世社会では「すべての自由人は、実力で自分の権利を守る」ということが許されていた。その実力行使をフェーデと呼んだ。騎士の決闘から諸侯や都市の間の争い、戦争まで、その形式はさまざまだったが、いずれも法にのっとった行為だったのである。つまり個人でさえ、現代の国家と同じように主権をもっていたということになる。逆にいえば、中世の国家はそれだけ力が弱かった。

 やがてフェーデを禁止して、訴訟によって平和的に争いを解決しようという動きがでてくる。それを立法化したのが平和令(ランドフリーデ)。しかしこの法令が有効に活用されるには、「個人の権利であるフェーデを放棄して、集団の利益を優先させる」という合意が協定として必要になる。そしてこの協定に違反してフェーデの権利を行使した者は、「集団に対して犯罪を犯した者」として罰をうけるということになり、集団からの裁判をうける。しかしながら、こうした「考え方」はそう簡単には受け入れられず、またシステムもさまざまに変化しながら、ドイツ独特の「領邦国家」の成立にかかわっていく。

「1462年のマインツの文書闘争」は、12世紀に市民が大司教から勝ち取った市民の権利を、15世紀後半に大司教フォン・ナッサウ(任期1461~75)が踏みにじったことに始まった。

 話は次のように展開する。フォン・ナッサウの前任者フォン・イーゼンブルク大司教(任期1459~61)は、フォン・ナッサウが新しい大司教に選ばれたあとも職に居座っていた。そこで新任の大司教フォン・ナッサウは軍を率いてマインツに攻め入り、実力でフォン・イーゼンブルクを追い払い、大司教の座についた。そして余勢を駆って、市民のさまざまな権利を剥奪したのである。市民の権利は大聖堂の入口の青銅の扉に刻まれていたが、ファン・ナッサウは意にも介さなかった。やがてフォン・ナッサウは死去。フォン・イーゼンブルクがふたたび大司教の座に返り咲いた。しかし彼は、市民に権利をふたたび返そうとはしなかった。こうしてマインツは、大司教による支配が1802年まで続いたのである。(参考文献、ドイツ史、山川出版社)(完)。

 

 
 
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