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Tourist Information
Brueckenturm am Rathaus,
55116 Mainz
Germany
Phone: +49-(0)6131-2 86 210
Fax.: +49-(0)6131-2 86 21 55
tourist[at]info-mainz.de
www.mainz.de

 
  歴史

ラインランド・ファルツ州(英語ではラインランド・パラティネイト州)の首都。古い大学町で、人口は約20万人。ライン川にマイン川が合流する地点の、ライン左岸に市街がひろがり、ドイツの歴史では大司教の司教座があった場所として有名である。ラインの恵みをうけて、現在もワインビジネスのセンターになっている。とくにスパークリングワインの取引きは活発。フランクフルト国際空港から車で約30分しかかからないという交通の便のよさから商工業ともに発展し、河川交通のかなめでもあり、テレビやラジオのメディアの所在地でもある。

 

 

 

町の基礎は、古代ローマの軍隊が紀元前38年にケルト族(ヨーロッパ原住民)の居留地ちかくに砦を築いたことに始まる。モグンティアクムと呼ばれた基地は、ローマの勢力が拡大するにつれて発展をとげ、やがて属州上ゲルマニア(スイスのバーゼルからコブレンツまでの地域)を支配するローマ軍主力の司令部となった。しかし拡大を続けたローマ帝国は、4世紀末には東西に分裂する(395)。さらに81年後には西ローマ帝国が滅亡してしまい、ヨーロッパは、いわゆる「中世の暗黒時代」に入っていった。 8世紀の半ばになると、ローマ教皇の命令をうけた僧ボニファティウスが、キリスト教の布教のためにゲルマンの地にやってきた。ボニファテイウスはマインツに大司教座を定める。これでマインツは、ドイツにおけるキリスト教の総本山となった。さらに1254年に通商同盟である「ライン都市同盟」が結成されるとマインツは同盟の中心となり、「黄金のマインツ(オウレア・モグンティア)」といわれるほどの繁栄を謳歌することとなった。

 

 いっぽうマインツ歴代の大司教は、現在のドイツの原形であるドイツ神聖ローマ帝国の帝国宰相という地位にあるのみならず、「皇帝を選挙する権利をもつ7人の選帝侯(選挙侯)」の筆頭選帝侯となり、選帝侯会議を招集する権限をもつ強大な権力者となっていった(神聖ローマ帝国についてはハイデルベルクの項のコラムを参照。選帝侯についてはこの項のコラムを参照)。マインツの市民は当然のように、このような権力の集中に反発して市民の権利を主張したが、1462年に行われた「マインツの文書闘争」と呼ばれる大司教との争いで敗れ、あらゆる市民の権利を失い、圧倒的な支配下に置かれた。ドイツの他の町では、時代とともに市民の力が増大していって領主や司教から市民の権利を獲得していくが、マインツだけは1802年まで逆に大司教が力をもち続けた(「マインツの文書闘争」についてはコラムを参照)。

 

 15世紀のマインツでは、このほかにさまざまなできことが起きている。1476年から1477年にかけて、大司教のディーター・フォン・イーゼンブルクの命令でマインツ大学が建設された。ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を完成させたのも、この世紀の中頃である。活版印刷はルネサンス期の三大発明の一つで、あとの二つは火薬と羅針盤。 17世紀にはバロック芸術の最盛期を迎え、18世紀のマインツは皇帝選挙の筆頭選帝侯である大司教の町として大いに栄えた。しかしながらこの世紀末にはフランス大革命が起こり、影響をうけて3年後には「マインツ共和国」が成立した。大司教はいちはやく逃亡。町は自由主義者の軍隊に無血で占領されたが、すぐに大司教の巻き返しをうけ、圧倒的な砲撃のもとに鎮圧されてしまった。詩人ゲーテはこの争いの目撃者として、荒廃した町についての書述をのこしている。

 

 さらに第二次世界大戦(1939~45)による破壊は、旧市街の80%に及んだ。しかし町並みは復元されてかっての美しさを取りもどし、人々を魅了しつづけている。

 
 
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