大聖堂
旧市街の中心にある。正式の名は、聖ペテロ司教座大聖堂。8世紀末にカール大帝(シャルルマーニュ大帝)によって礎石が置かれ、ロマネスク形式のバジリカとして建てられた。現在見るような姿になったのは13世紀。大青銅の南西に重厚なつくりの塔、北西に細長い塔がつけくわえられた。言い伝えによると、南西の塔が分厚くなったのは16世紀に鐘楼として鐘を入れようとしたところ、鐘が大きすぎたので塔をひろげざるをえなかった、ということになっている。伝承はともかく、鐘は現在この塔にさがっている。
大聖堂内には13世紀につくられた青銅の洗礼盤や勝利の十字架があり、内陣の柱には12使徒のうち8人の使徒の像が見られる。
12使徒とは、キリストが福音を伝えるためにとくに選んだ12人の弟子。つまりバルトロマイ、タダイ、ヨハネ、ヤコブ、ヤコブ(アルバヨの子ヤコブ。前者と分けるため小ヤコブと呼ばれる)、マタイ、アンデレ、トマス、ペテロ、シモン、ピルポ、イスカリオのユダ(キリストを裏切ったので後に除かれ、マッティアにかわる)。像があるのは前者8人。主祭壇は1900年の製作。司教区博物館には、聖堂の宝物が展示されている。
市庁舎
大聖堂の西にあるマルクト広場は、破風のある切妻屋根の建物に囲まれていて、市庁舎もここにある。1500年に後期ゴティック様式で建造された。この市庁舎にある平和の間で、30年戦争の終りを告げる平和条約がドイツ神聖ローマ帝国の皇帝とプロテスタント諸侯およびスエーデン王国の間で、1648年にとり交わされた。スエーデンはプロテスタント派で、とうじは北の獅子といわれた大国であり、30年戦争最大の勝利者だった。そのスエーデンが領土分割で大きな譲歩をしたことにより、平和条約は皇帝から諸侯にいたるまで合意をえた。スエーデンは女王クリスチナの執政下にあり、女王はスエーデンの利益より「全キリスト教国の国民に平和をもたらす」という理想をつらぬいた。平和の間はプロテスタント派の会議場にふさわしく簡素である。
宝物展示室には、帝国ゴブレット(盃)と歴史都市オスナブリュックの17世紀の姿を再現した精巧なモデルがある。一見の価値がある。
シュタットヴァーゲ
市庁舎の北側に隣接している。かってギルド(職人組合)が、職人のつくった製品の品質が適格であるかどうかを管理したオフィスだった。いまでは婚姻登録所やその他の市の機能をつかさどる部署が入っている。
聖母教会
市庁舎のすぐ近くにある。ホールはゴティック様式で、芸術的に見るべきものが多い。祭壇はベルギーのアントワープ製、1520年につくられた。とうじのベルギー一帯はフランドル地方といわれ、ヨーロッパ商業の中心地であると共に木工彫刻が発達した地域でもあった。カトリック王国スペインの植民地でもあったから、祭壇や説教壇、教会に飾る宗教説話のシーンの木彫、聖人の像は大いにつくられた。この教会の勝利の十字架は、14世紀につくられたものとされている。
オスナブリュックに生まれた18世紀の法律家で歴史家、政治家だったユストゥス・メーザー(コラム参照)の墓碑が、祭壇の裏側にある。この教会の塔には上がることができ、町を一望にながめることができる。とくに毎週金曜と土曜の午後9時から始まる「夜警のツアー」では、中世の衣装に身を包んだガイドが塔上に案内してくれる。
エーリッヒ・マリア・レマルク平和センター
市庁舎のすぐ近くに、同名の図書館と共にある。世界的な作家レマルク(エーリッヒ・マリア)に関する資料が展示されていて興味深い。作家はこの町に生まれ、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての戦争の時代を背景に、戦争の非人間性と運命にもてあそばれる人々の悲劇を反戦色つよく描いていった。そのためナチスの時代には、パナマ政府のパスポートを使ってアメリカに亡命せざるをえなかった。数多くの著作が各国語に翻訳されているが、とくに名作「西部戦線異常なし」「凱旋門」「愛するときと死するとき」の長編三部作は、いまもひろく読みつがれている。映画化もされた。
ドミニコ派修道会教会芸術ホール
マルクト広場からビーア通りを北東に進むと、ハーゼ・トアバル(環状通りの一部)に突きあたる。その右の一角に、この教会はある。13世紀のゴシック様式でたてられたホール式教会。ホール式教会というのは、一つだけの身廊からなっている聖堂のこと。身廊と側廊は同じ高さなので、ゴシック等高式聖堂とも呼ばれる。
1803年までは僧院教会として使用され、その後兵舎として使われた。1971年から市の芸術ホールになっている。展示ルームの設備のよさには定評がある。
ヘーガートア街』と『ヘーガーの門
市庁舎とヘーガーの門の間は、旧市街が復元されている。クラーン通りとビーア通りには木組みの家や石造りの家が並び、木組みの家の代表的な建物ヴィルマンの家やホテル・ワルハラもここに美しい姿をみせている。酒場やアンティークショップが並ぶヘーガー通りをいくと、へーガーの門に至る。この門は1815年にワーテルローの戦に向かった町の兵士を記念して、1871年に建てられた。
ここから北にのびるバル通りにはブックスの塔がある。市の城壁にあった最も古い塔で、一時期牢獄として使われたこともある。現在は博物館で、中世の武器や拷問の道具が展示されている。
ビュルガー・ゲホルザムの塔はその言葉どおり市民の留置場として使用された。バーレンの塔と保塁、ペニッケンの塔も現存している。
これらは町を守るため、北側に築かれた塔である。これはオスナブリュックの地形が、南には湿地帯がひろがっていてこの方面からは攻めにくく、つねに北側から攻撃をうけるという地形的な理由による。
文化歴史博物館=フェリックス・ヌスバウム・ハウス
ヘーガーバル通りにあるこの博物館には、民俗学やオスナブリュックの歴史、芸術に関する品々が展示されている。また隣接して、1998年には高名なアメリカ人建築家ダニエル・リーベスキントの設計でヌスバウム記念館がたてられた。フェリックス・ヌスバウム(1904~44)はこの町で生まれた画家で、新即物主義とシュールリアリズムの画風で作品を描いたが、こうした前衛的な芸術はナチス・ドイツの時代には退廃芸術と決めつけられて迫害をうけた。画家はユダヤ人であった。そのためベルギーのブリュッセルで亡命生活を送っていた。しかし密告によって秘密警察に逮捕され、ナチス・ドイツが連合国軍に降伏する2ヶ月前にアイシュヴィッツの強制収容所に送られ、殺害された。展示されている彼の作品は、ナチスの非人間性を痛烈な皮肉をこめて後世に伝えている。オスナブリュックは「平和の町」というイメージをアッピールしている。戦争の不条理と残酷さを書き続けた作家のレマルクも、このアッピールには大きな貢献をしている。
聖カテリーナ教会
ヘーガーの門から南に向かい、カテリーン通りを東に入ると西ニーダーザクセンで最も高い103・5メートルの塔をもつこの教会が見えてくる。14世紀のホール式教会。様式としてはゴチックである。内部は20世紀になってから整えられた。
レーデンホーフ
聖カテリーナ教会から、アム・レーデンホーフ通りに入るとある。かっての貴族レーデン家の館で、オスナブリュックにのこる貴重な石造建築物である。14世紀に建物の下部が造られ、ついで15世紀の終りに上部の居住部分が造られ、同時に小さな鐘がついた破風がつけ加えられた。この部分はルネッサンス様式である。現在は財団法人ドイツ・ピース・リサーチの本部になっている。
ノイアーグラーベン(新しい濠)
この通りは、かって北にあった旧市街と南の新市街を分かつ濠であった。二つの市街は、1306年に合併された。通りに面してシテーホールがあり、さまざまな催しものの会場となっている。
宮殿
かっての宮殿も、この通りに沿っている。司教の宮殿として初期バロック様式で建設された。建設は1665年に始められ26年後の1681年に完成したが、司教が住んだのは1668年から1690年までの、わずか22年間だけだった。現在はオスナブリュック大学として使用され、庭園は市民の憩いの場となっている。
聖ヨハネ教会
ノイアーグラーベン通りをさらに進むと、ノイマルクトの交差点に至る。ノイマルクトは新市場という意味だが、市場はない。南からヨハニス通りが合流している。この通りに、聖ヨハネ教会がある。13世紀後半に36年かけて建てられた。初期ゴティックの僧院つきホール式教会で、1440年には聖体安置の塔が砂岩で造られた。祭具室は中央の柱を四隅で四本の柱が囲み、丸天井を形づくっている。建築様式としては必見である。
祭壇にほどこされた彫刻は「オスナブリュックのマイスター工房」の職人の手による。1511年に彫刻の装飾がほどこされた。オスナブリュックの職人は建具職人、彫刻師、木彫師が自由にチームを組んで仕事をしたので、彼らがもっとも活躍した16世紀前半には「オスナブリュックのマイスター工房」と呼ばれていた。
この教会は、かって新市街の中心にあって新市街の象徴であったが、現在は新旧の市街が一つになってしまったのでそのような意味合いは失われている。
トイトブルクの森
オスナブリュック市の北には、トイトブルクの森がひろがっている。2千年以上前のオスナブリュック一帯は大森林だった。この森で紀元9年、古代ローマ帝国を震撼(しんかん)させたトイトブルクの戦いがローマ軍の三個軍団とゲルマン軍との間で戦われ、3日間の戦闘でローマ軍は全滅した。報告をうけた老齢のローマ帝国初代皇帝アウグストスは大きな衝撃をうけ、戦闘中に自殺した司令官ヴァルスの名を叫び、「ヴァルスよ、ヴァルスよ、わが軍団を返せ!」と大理石の柱に額をうちつけながら嘆き悲しみ、数か月髪もきらず髭もそらなかったと伝えられている。
ゲルマン軍を指揮したのは、ローマ騎士称号とローマの市民権をもった若いゲルマン人将校アルミニウス(ゲルマン名ヘルマン)だった。アルミニウスはそれまでの軍歴の中でローマ兵として数々の戦闘に参加していたので、ローマ軍の戦法を知りつくしていた。ローマ三個軍団の指揮者は執政官ヴァルス。彼は総督としてゲルマニアに赴任後ローマ支配をつよめ、きびしく税をとりたてた。その結果ゲルマン諸部族に不満がひろがり、紀元9年秋の戦いとなった。
ローマの軍団は、多数の非戦闘員や荷駄とともに、森の道を切り開きながら、夏の駐屯地からライン川畔の冬の宿営地に移動中だった。奇襲攻撃をうけて三個の軍団は壊滅、ヴァルスは戦死し、生き残った者はすべて処刑された。この敗北によってローマが支配する北ヨーロッパ地域の境界線は、いっきょに東のエルベ川から西のライン川まで後退した。 戦いの場所はながい間特定されなかったが、1989年にトイトブルクの森からローマ軍の武器や装備の破片、サンダル、硬貨、儀式用のマスクなどが発見され、紀元9世紀の戦いの場所として学問的にも認定された。現在は展望台のある博物館が完備されて、伝説的な戦いについての詳細を知ることができる。
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