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連絡先

Tourist Information

Am Alten Markt

Friedrich-Ebert-Strasse 5

14467 Potsdam

Germany

Phone: +49-(0)331-275 58-0

Fax: +49-(0)331-275 58-29

tourismus-service[at]potsdam.de

www.potsdamtourismus.de

 

 
  歴史

 首都ベルリンから南西にわずか15キロ、ドイツ有数のうつくしい庭園都市。フリードリッヒ大王が造営を命じたサンスーシ宮殿とその庭園は、18世紀の建築、造園技術の粋をあつめた優美な姿をいまも見せている。

 

サンスーシ宮殿とフリードリヒ大王

 サンスーシ宮殿は、ポツダムの顔。「憂いなき」とフランス語で名づけられた宮殿はロココ様式だが、華麗というよりむしろ愛らしい。建設を命じたフリードリヒ大王(1712-1786)は、いまでも親しみをこめて「アルター(老)フリッツ」とよばれる。「王は国家第一の下僕」とみずから口にしてはばからず、信仰の自由、新聞の発行、拷問の廃止などの改革をすすめ、哲学者カントをして「フリードリッヒの時代」とまで賞賛せしめた明るい時代の創造者だった。大王は国家としてのプロイセンを不動のものとした。

 

 円蓋(えんがい)のある主廊から、左右にながく97メートルの両翼がのびている。26体の像が主廊の屋根をささえ、サンスーシの文字が半円形の壁にきざまれている。宮殿の基本デザインは、大王がスケッチで描いた。1745年には構想がまとまり、2年後には完成している。しかし周囲の庭園などの一連の建物は、1804年から延々と56年かけて造られた。300ヘクタールの庭園を手がけたのは高名な造園家レネ。造園を命じたのは、大王から2代あとのフリードリッヒ・ヴィルヘルム王である。レネはポツダムをながれるハーヴェル川を5キロ借景としてとりこみ、類をみない庭園にしあげた。

 宮殿の部屋は、いずれもつましい。執務室兼寝室には王家の肖像画が飾られているが、あとは執務用のテーブルと肘掛けのついた長椅子があるだけ。この肘掛け椅子で軍楽隊の演奏に耳をかたむけながら、大王は74歳で波乱の生涯をとじた。

 

 大王は多才だった。音楽の才能はバッハ(小)さえかけ値なしで賞賛し、フルートの演奏の精妙さには舌をまいた。レパートリーは300曲をこえ、宮廷奏者に支払う金がないときには、大王みずから客のために奏者をつとめた。武人として偉大であっただけでなく、芸術でも「フリードリッヒ・ロココ」の名をのこしている。

 

 テラスの東に大王の墓がある。王族のものとは思えないほど簡素なもので、地面の石板には墓の主と愛犬の名がきざまれているだけ。墓碑銘もない。

 サンスーシから西へは新広間(ノイエ・カンメルン)、オランジェリー(温室)とつづく。前者は宮殿を造ったクノーベルスドルフの手になる建物だが、後者は19世紀のドイツを代表する建築家シンケルの弟子たちが設計し建築した。これらのすぐれた才能があつまることにより、「庭園の中の宮殿」というかってないスタイルの傑作が誕生した。

 

 宮殿は高台にあるので、庭園がひろびろと見わたせる。庭園におりる大階段の踊り場からはテラスが左右にのびて、各テラスの壁はブドウの緑で覆われている。だから庭園から見上げると、宮殿は緑から浮きあがっているようにも見える。「大階段をのぼっていく。宮殿がすこしずつ姿を見せる。その景色がなんともいえない」という者もいる。

 

新宮殿

 庭園を東西にはしるハウプト・アレー(グランド・アヴェニュー)の西のはずれにある。ドイツ・バロック様式の建物は前面が240メートルもある。フリードリッヒ大王の命による建築だが、サンスーシを考えた頭がプランニングしたとは、とても思えないほど重苦しい。200ある部屋も装飾過多を感じる。これには訳がある。フリードリッヒ大王はシレージア地方(現在のポーランド南部とチェコの一部)の領有権をめぐって、オーストリアの女帝マリア・テレジァと7年にわたる戦争を戦った。戦いは引き分けに終わったものの、プロイセンの国家としての地位はまだ不安定だった。余力を示すために、新宮殿の建設がはじめられた。国内的には経済効果をひきだす目的があった。一種の公共投資である。

 

ツェツィーリエンホーフ宮殿

 ユングフェルン湖畔にある。英国の田舎にあるジェントリー(郷士貴族)の館ふうであり、湖ぞいにひろがるノイアーガルテン(新庭園)もイギリス庭園なので、その一角だけを見ればとてもドイツの風景とは思えない。皇太子ヴィルヘルムのために建てられ、皇太子妃ツェツィーリアの名前がつけられた。第一次世界大戦の敗北でドイツ皇帝が退位して帝国が崩壊する1年前に完成している(1917年)。

 

 第二次世界大戦末、宮殿は連合軍の「ポツダム会談」の場としてふたたび歴史の舞台に登場する。アメリカ、英国、(旧)ソビエトの3国の首脳の間で、戦後処理が話しあわれた。アメリカ大統領トルーマンは、ここで原爆の完成をつたえる暗号「赤ん坊が生まれた」をうけとった。会談がはじまって10日目の7月26日、日本は無条件降伏をうながされた。日本は黙殺を表明。その後の8月6日に、最初の原爆が広島に落とされた。その2日後、ソビエトは日本に宣戦布告。その翌日、2発目の原爆が長崎に投下されて、日本は力つきた。会議室はそのときのままの姿でのこされている。宮殿はドイツ占領下ではソビエト軍の将校クラブ、旧東ドイツに返還されてからはホテル(一部は博物館)としてつかわれ、現在はブランデンブルク州の所有になっている。

 

バーベルスベルク宮殿

 連合軍首脳が泊まった宿舎は、すべてノイ・バーベルスベルク地区にある。近くにはドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の別荘バーベルスベルク宮があり、公園になっている。希代の政治家ビスマルクは、この庭園でプロイセン宰相を拝命した。ビスマルクは3つの王国と貴族連合だったドイツを帝国として統一し(1871年)、ドイツ帝国初代宰相となった。

 
 
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サンスーシ宮殿



新宮殿



ツェツィーリエンホーフ宮殿



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サンスーシ宮殿



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