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エアフルト、花咲き乱れる要衝の地
「egapark Erfurt エガパーク・エアフルト」
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  エアフルト、花咲き乱れる要衝の地

     

 ドーム広場が、やわらかい朝の光をうけている。週末にはマーケットでにぎわう広場も、ウィークデー、それも早朝ともなると、足ばやに勤めにむかう人の姿を見かけるだけだった。観光バスもまだ姿をみせていない。〈それにしても、なんとマア、ひろびろとしていること〉と広場を眺めながら、私は思った。エアフルトの町のスケールを考えれば、不釣合なほどの広さなのである。エアフルトはチューリンゲン州の州都なのだが、人口は20万余しかなく、町は丘と森に囲まれて、印象としては地方の小都市の風情なのだ。〈どうして、こんなにデカイ広場をつくったのだろう?〉という疑問は、1年前に訪れたときにももったが、そのときはスケジュールのあわただしさに追われて、ついたずねそびれてしまった。今日は歴史委員会のパールさんが案内してくれることになっている。答えを与えてもらえるだろう。そのパールさんと約束した8時までには、まだ30分ほどあった。

 

 広場は南西で勾配がたかまり、小さな丘状をなしている。丘は全体が石の階段や側廊で覆(おお)われていて、地肌は見えない。大聖堂と、3本の尖塔を空に突き上げたセヴェリ教会が、圧倒的な巨大さで立ち上がって、青空にくっきりとした輪郭(りんかく)をきざみこんでいた。2つの建物とも宗教的権威そのものと言っていい。

 

「でもね」と、1年前パールさんが説明したところによれば、「この隣り組は仲が悪かったんだよ」。〈権威はおたがいに不寛容〉ということなのだろうか。大聖堂と教会のへだたりはわずかな空間でしかないが、それにもかかわらず仕切り石が置かれ、十字架までたてられている。しかし〈いがみ合い〉はともかくとして、大聖堂も教会も建築物として見れば、時代の息吹きを反映していてなかなか面白い。

 

 まずセヴェリ教会だが、初期のゴシック様式で建てられている。この建築様式は12世紀の中ごろ北フランスで考案され、ルネサンス期(11世紀~15世紀)まで続いた。建物はたかだかとのび上がり、光をとりいれる窓は大きく造られる。セヴェリ教会もそのセオリーにしたがって造られていて、槍の穂先のような尖塔は一直線に天をめざしている。アウグスティノ派の修道院が基礎となり、教会全体は1480年に完成した。ところで余談になるが、このアウグスティノ派やフランシスコ派、ドミニコ派をひっくるめてドイツでは「乞食僧侶の教団(ベッテルミュンヒ・オルデン)」と言うことがある。清貧が徳目とされ、フランチェスコ派ともなると履き物までぬぎすてたそうだから、どこか日本の「捨て聖(ひじり)」を想像させられる。エアフルトには、これらの教団が3つともあった。宗教改革の立て役者マルチン・ルッターはアウグスティノ派の僧侶として、この町の僧院で修行の日々を送った。

 

 いっぽう大聖堂は、12世紀の半ば、保塁の上にロマネスク様式のバジリカとして建てられた。バジリカは「古代ローマで考え出された壁の厚い長方形の建物」であり、集会所であると同時に、敵に襲われたとき避難をする保塁でもあった。だから光をいれる窓は、きわめて高い位置にしかない。12世紀といえば、日本では平安貴族の支配が終りをむかえ、武士団が歴史の主人公として姿をあらわす時代になる。洋の東西とも社会を秩序だてる規律はまだ定まっていない。ヨーロッパはローマ帝国の崩壊から五百年以上つづいた「経済危機と混迷」から、ようやく這(は)い出そうとしているところだった。治安はもちろん回復していない。だから聖堂といえども、とりあえずローマ風バジリカで建てたのかもしれない。このバジリカに内陣や玄関(ポルタール)が、その時代の様式にしたがってつけ加えられ、14世紀にゴシック様式で身廊(ネイブ)を完成させて建築を終えた。 こういうふうに「継ぎたし、つぎたし」で造っているので、さまざまな様式が重なりあっている。おまけに位置の関係で、広場から石段を登りきっても大聖堂の正面入り口にはいたらない。そこで階段の正面に三角形の入り口をつくり、格好をととのえた。最後につけ加えられたので入り口は狭く、縁は彫像で飾られている。マルチン・ルッターは、この大聖堂で僧侶に任じられた(1506年)。

 

 この大聖堂にはもう1つ、見るべきものがある。ボルフラムと呼ばれる青銅の像がそれで、祭壇のあたりで手をひろげて鈍い光を帯びている。鋳型で造られた等身大のこの像は「モダンアートである」と紹介されてもうなずいてしまうかもしれないほど躰の線が簡潔であり、ビザンチンの影響をうけた表情はピカソのデッサンを思わせる趣(おもむき)さえ感じる。像は1160年、マグデブルクで鋳造された。名前と年号は帯にきざまれている。「たぶんスポンサーの名前だろう」とパールさんは説明したが、バランスよく立っている姿は、なんともすがすがしい。立像をバランスだけで立たせるのはとうじの技術では難しく、像を立たせようとすれば壁に切りこむか支えをつけるしかなかった。偶然バランスよく仕上がったのかもしれないが、みごとな職人芸だともいえる。ドイツに一体しかない貴重な像である。

 

 そんなことをとりとめなく思い出していると、「おはよう」と背後から声をかけられた。パールさんが笑顔で立っていた。丸っこい顔立ちで皺深く、髪はマッ白だが、がっちりした躰つきはとても孫が4人もいるオジイサンとは思えない。ピンクのシャツに革のジャンパーがよく似合う。「約束の時間まで、まだ20分ありますよ」と腕時計を見ながらいうと、「天気がいいからね。エガにいってみませんか?」

 

「藍(あい)染めのほうは、どうします?」私はパールさんにたずねた。その日の主な予定は、藍染めの工房を訪ねることだった。ジグリット・ヴァイスさんという老婦人が「チューリンゲンの青」と呼ばれる伝統的なブルーの染色の技を守っているのである。この美しいブルーの染物を知ったのは1年前のこと。染物は中世のエアフルトに莫大な富をもたらした。しかしその製法となると、まさに抱腹絶倒。ユニークきわまりないエピソードを語ることになる。以下、中世エアフルトの「チューリンゲンの青」の物語である。

 

 この地方では、原料となる大青(アブラナ科の二年草)がゆたかに茂っていた。この大青を乾燥さして石臼で挽(ひ)き、大樽につめる。しかるのちに、水分を加えた。この水分がまことに奇想天外なシロモノで、尿と水との混合物だったのである。

 

 そこで、まずビール製造からことは始まる。ビールができたら、製造所や商人は軒先にあけた丸い穴に藁束をさす。エアフルトの町を歩くと、いまでもこの穴の残った家を何軒か見ることができる。さて、藁束が飾られるやいなや、尿を造るために町中の男が総動員された。「そら、いけっ」とばかりに飲ん兵衛たちはかけつけ、大いに飲み大いに放尿する。かくして尿は集められ、大樽に注がれ、大青が腐り、水分が蒸発してしまうまで倉庫でねかされた。さぞかしすさまじい匂いを放ったことだろうが、製法は町の企業秘密だった。水もどしされた大青は「チューリンゲンの青」と呼ばれる深々としたブルーの色合いを生んだから、染め上げられた布地は売れ筋の商品となって、大いに町に富をもたらした。秘密とされた製法は噂に噂を呼び、ついには「悪魔が作り方を教えているのだ」と言われるまでになった。しかしこのユニークな染料の製法も、インディゴ(インド藍)が輸入されるようになると壊滅する。ブルーの染めつけが、どこでも可能になったからである。 「大青とはどのようなものだったのか、できれば知りたいのだが」と、パールさんにお願いしたところ、中世の石橋クレーマー・ブリュッケのたもとで「チューリンゲンの青」の布地や陶器を扱う店に案内された。「中世の現物はこうだったんですよ」と店の主人から手渡されたのが、大青をダンゴのように丸めたものだった。乾いた馬糞を想像すればいい。もちろんイミテーションなのだが、なまじ愉快な話を聞いたあとだけに、思わず鼻をちかずけて匂いを嗅(か)いでしまった。現代の染めつけ師ジグリット・ヴァイスさんは、むろんインディゴを使って「チューリンゲンの青」の布地を生み出している。

 

「工房はエガの庭園の裏手にあるんですよ」とパールさんは言った。「だから花を楽しみながら、公園を横切って裏門から出ればいい。時間はまだたっぷりあるから、まず朝の太陽のもと、花と緑を楽しみましょう」。そういうことになって、私はパールさんの車に乗りこんだ。

 エガの会場に向かうには、大聖堂とセヴェリ教会を左に見て丘の切り通しをこえる。右手に「ペータースベルクの要塞」がある。巧妙に構築された要塞で、麓からでは大部分が丘の斜面に隠れてしまい、全体の姿は見てとれない。「あなたが知りたがっていた、ドーム広場の由来だけど」とパールさんは坂の途中で車の速度をゆるめながら「この要塞と関係があるんです。要塞が築かれたいきさつは、ご存じでしょう?」。

 

 そのことは、すでに1年前に説明をうけていた。中世エアフルトは、交易の中心地としても栄えた。ひとえに地勢的に有利なポジションにあったからであり、「王の道(ヴィア・レギア)」と呼ばれたパリ(フランス)からアーヘン、フランクフルト、ドレスデン(以上ドイツ)をへてキエフ(ウクライナ)にいたる東西の交易ルートと、バルト海への出口である北ドイツのハンザ都市リューベックと南ドイツの商業都市ニュルンベルクを結ぶ南北の交易ルートの交差点上にあった。交易と商業の中心地としてエアフルトは一大繁栄し、13世紀にはすでに4トンの金が町の金庫に蓄(たくわ)えられていたという。 力をもった町は「自治権」を要求した。交渉の相手はマインツの大司教である。ここで説明をつけ加えておかねばならないが、エアフルトはマインツの大司教が治める司教区だったのである。つまり「親分がマインツだった」と思えば判りやすいだろう。余談だがエアフルトの市の紋章は「車輪が1つ」、マインツは「車輪が2つ」になっている。

 マインツの大司教は、金の生る木のワガママを許すはずがなかった。大軍で町を包囲し、屈服させると、町を見下ろす丘に大要塞の建設を命じた。工事費はもちろんエアフルトもちである。完成した要塞に大司教は兵を入れ、町のうごきを監視させた。函館の五稜郭を思わせる要塞は堅牢無比をきわめ、200年後にその威力を発揮した。これがドーム広場の誕生のいきさつにつながっていく。

 

 ナポレオン(1世)の時代、フランス軍がプロシァ、オーストリア(ハプスブルク)、ロシアの押さえとして、1806年から8年間駐屯した。ナポレオンのロシア遠征が失敗に終わったとき、プロシャ、オーストリア、ロシアの連合軍が追撃してきた。エアフルトでは連合軍3万と、要塞にたてこもったフランス軍守備兵300との間で砲撃戦がかわされた。連合軍は人数では圧倒的に優勢だったが、要塞は落ちなかった。15時間にわたる砲撃戦では、どちらの砲弾も相手にとどかなかったのである。哀れをとどめたのは両方の砲弾の雨を浴びたエアフルトの市街で、焼け野原となってしまった。「そのときの砲撃で吹きとばされた場所が、そのまま広場になったのが現在のドーム広場」とパールさんは車のスピードをあげて切り通しをこえながら、説明を締めくくった。つけ加えれば、フランス軍は整然と隊列を組んで故国に帰っていったそうである。

 

 エガは、色鮮やかな花々が咲き乱れ、春の光りにきらめく公園になっていた。噴水の水は噴き上げられるだけではなく、広い流れとなって公園にうるおいを与え、手摺りには点文字がうたれて目の不自由な人達に「いま目の前にどのような花が咲いているのか」を伝える心くばりがなされていた。水場では裸足になった子供たちがはしゃぎ、若いお母さんたちがそれを見守っていた。

 

 

Text by Katsuiji  Tani

Diner's magazine "Signature" 2000

 

◆特集「egapark Erfurt エガパーク・エアフルト

 
 
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フォトギャラリー




マリーエン大聖堂とセヴェリ教会



エガ(エアフルトの庭園展示地域)



夜のマリーエン大聖堂とセヴェリ教会



大聖堂階段でのオペラ祭



マルティン・ルター



要塞建築 ペータースベルク



クレーマー橋



アウグスティーナー修道院

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